シャルの心の端書き置き場

短くは書けないそんなあれこれを

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

 こんばんは、終に僕にも日常へ帰るときが来たようです。まぁ、ひと月半も休みだったので社会人の方よりも随分長いこと休めましたね。僕の趣味は読書、FF14、後は古文漢文を味わうことくらいなので、それらを堪能したことで十分に楽しんだと言えるでしょう。しかし怠惰に寝過ぎたことは否めませんので、そこは次の長期休暇への反省とします。

 

 そして今回の内容はタイトル通り、小倉百人一首の一首である小野小町の「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」で思ったことです。
 ざっと5割の確率で当たる現代語訳を付けるとするなら、「花の色は色褪せてしまったなぁ、虚しく物思いを長雨が降る中している間に」というところです。文法は省略させてください、僕はそこに詳しくないので。そして和歌の心情ってその人の中でしか味わえないもので、完全に理解することは土台無理な話ですので。

 この詠は絶世の美人とされ伝説の多い小野小町の詠んだもので、小野小町は引く手数多で恋愛の相手に事欠いたことはないのだろう、と僕は勝手に想像していたのでこの前この和歌を読んだときに衝撃を受けました。きっと引く手は数多だったのでしょう、しかし彼女は物思いをしている日々の暮らしの間にすっかり容姿も衰えてしまったという意味をこの和歌に込めていて、彼女が心からときめく相手に巡り合えなかった、又は巡り合えても身分の差に身を焦がすような想いをしたのかもしれない、という考えに僕はふと思い至って切なさを感じました。彼女は後宮に仕えたという記述もあるので、きっと高い身分と教養の深さはあったのですが、それでも届かない相手がいたのかもしれません。

 僕は隔てられるとわかっているからこそなのか、燃え上がるような恋が大好きで古文では源氏物語の空蝉が光源氏に対して身分の差を思い悩み光源氏と逢瀬を色々な手段で拒む場面では胸が締め付けれるような想いで読んでいました。
 僕は最近、ある感情が恋なのか否なのかで深く悩んでいますが、小野小町の「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」を読んだ後に、小さいことに悩んでるなぁ、そして、このまま悩むうちにきっと半年や一年で相手はきっと立場や状況が変わって僕に話しかけてくれるそんな今の日常はなくなってしまうのだろう、なんて思うと居ても立っても居られない焦燥感を覚えます。恋かわからないなら相手に打ち明けて、ゆっくりと募る思いの丈を確かめれば良いではないかと思うのです。しかし、弱虫な僕は相手の発言一つ一つに一喜一憂する今の僕を見せたいとは思わないのです。そしてこの煮え切らない想いを伝えて相手がどう受け取るのだろう、ただ迷惑に感じるのではないかと思うと、より胸が締め付けられる思いで行動には移せないのです。何より今の平穏で相手の心の中にそっと小さくも僕の居場所があるということが嬉しくて堪らないのです。勿論、カテゴリーとしては何でもない唯の一個人、きっとすぐ忘れられる人物でしょう、それでも良いのです。

 失いたくない、という意識があまりにも強すぎるのでしょうね。それを理解していてもきっと僕の容姿に関係なく、僕は行動には移しはしないのでしょう。恋は日々の想いの交換の連続の中で次第に芽生え、育つのが僕の理想の恋愛です。許されるなら、その理想が相手の中でも共通していることを祈らせてください。勿論ですが、相手が僕に対してある特殊な感情、嫌悪でも好意でも何でもです、他者との差別化が図られるような感情全てです、を抱いているということは微塵にも考えていないです。僕は自惚れたくはないのです。お互いの感情を言葉にしないとなかなか信じられないのです。だから、僕は比較的素直に振る舞っているようには思いますけどね。

それでは今回はこの辺で。次回は近いうちに、僕が百人一首を最近になって初めて触れて特にお気に入りの二首、平兼盛壬生忠見のお話でもさせてください。それではこの拙い文章を読んでくださった貴方にまた今度も会えますように、小さく胸の中で祈って。